『暇と退屈の倫理学』を読んで。FIREの後の退屈、ゲームの後の虚しさの正体が分かった。

FIREの後の退屈、ゲームの後の虚しさ
こんにちは、NAOです。
SNSなどを見ていると、FIREした人が、時間を持て余して「暇だ」「退屈だ」と悩んでいる声をよく耳にします。
また、そこまで極端ではなくても、皆さんも一度は「長時間ゲームをした後の、なんとも言えないあの虚しさ」みたいなものを感じた経験はないでしょうか?ゲームに限らず何かはしていて暇ではないのに、それが終わった途端ふと現実に戻され、なんか無駄な時間を過ごしてしまったなというあの感覚です。
そんな「暇や退屈」の正体について、論理的に優しく説明してくれる一冊の哲学書に出会いました。國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』です。哲学書と言ってもとても読みやすく、ページをめくる手が止まらないほど面白い本でした。
特に先ほど挙げた「ゲーム後の虚しさ」——本書では友人知人とのパーティーの参加後が例に挙げられていますが——そういう「人がいて、やることもあって暇じゃないのに、それが過ぎ去ると心は退屈していた」という状況について解説してくれている点が、私にとってすごく新鮮でした。
また、本書に直接書いてあるわけではないのですが、読み進めるうちに「普段感じるマンネリもだからなのか!?」とか、「子供時代にはあまり退屈を感じなかったのに、大人になってからよく感じるのもそういうことか」といった、読みながら、また読後にたくさんの気づきが自分の中から湧き上がってきました。
退屈と付き合い、世界を「感じる」
とてもボリュームのある本なので、ここで短くまとめて説明するのは難しいですし、本書の最後の方に「結論」という章があるのですが、そこで筆者も「結論だけ読んでも意味がない」と言っています。
ですので、ここではこの本の要約というより、私がこの本を読んで感じたこと、これからこうしていこうと思った点を書いていこうと思います。
まず、「退屈」は人間にとって避けられないものだということ。私たちは死ぬまでこれと付き合っていかなければなりません。そんなことはないと思う読者もいるかもしれませんが、本書を読めば納得できると思います。
そして、退屈に押しつぶされないようにするには、子供の頃のように自分の外側にアンテナを張り、興味を持ったことをとことんやる。これに尽きる。「ハマる」とか「凝る」、もっといくと「オタク」とか「マニア」になるというような、あの感覚。
その対象は、人でも、モノでも、なんでも構わない。
例えば日常生活の家事やご飯を食べる時など、なんでもないことでも、その瞬間に集中して「感じる」こと。
そうやって自分の外側にあるものに五感を開いて夢中になっている状態のとき、人は退屈ではなくなる。さらに仮にそのときひとりであっても、「孤独(寂しさ)」からも解放される。
人間だからこそ、冷めて、また出会う
ただ、どんなに熱中していても、ふと魔法が解けたように冷める瞬間もあったりします。あんなに夢中になっていたのに、今はなんとも思わないなんてことあったりしますよね。でも、本書によればこれも「人間だからこそ」の性質らしいのです。
もし冷めてしまったら、また新しい対象を見つければいい。
いや「見つける」というより、あらゆることに日頃から関心を持とうとアンテナを張るということが大事。無理に見つけようとするのは退屈に囚われてしまっている。
生涯ひとつのことではなく、新しい対象に次々と興味を持てるというのも、これまた人間ならではの自由な能力なのだそうです。
といったように、書き進めてきましたが、私なんかの感想ではとてもこの本の魅力は伝え切れません。興味を持った人はぜひ本書を読んでみてください。
読んでいる間、間違いなく「退屈」から解放されますし、読後も今後の人生における「暇や退屈」に対しての向き合い方を、ガラリと変化させてくれる1冊になるはずです。
私は図書館で借りてきたのですが、Amazonのオーディブルのキャンペーンの利用期間中だったので、そちらでも聞いてみました。ボリュームのある本なのでオーディブルと併用しながら読み進めていきました。
オーディブルのキャンペーンが使える方は是非活用して聞いてみてください。












